現実に合わせていく。これが処方箋。確かにそうなのでしょう。自己を見ている感情、思い、辛さ、苦しさは実は虚構という一面があります。そこにとらわれ、留まるより次々現れる現実に方向を向けた方が実態感がもて、充実感として溜まっていきます。ここで思うのは、どこまで無理して合わせるのかということ。ACが強いと、合わせようとしてしまう。このくらいでいいかな…なんて。どこまでも他者の目でとらえがちか。(>_<)
怒られないように行動する、周りの目を気にしながら行動することで生きてきた。(>_<)辛いはず、苦しいはず。自分を生きていないから。生きようとする自分をねじ伏せて、目立たないようにする、平静を装う。苦しくてたまらない。いつの間にか、その習性が日常化し、私がいなくなる。感情の表現でさえ、周りに合わせ、自分の感情にもこれでいいのかと不安になる。
脳のしびれ、緊張、締め付けについて、かかりつけの主治医から紹介状をもらって、大きな病院でMRI診断をしたが、異常なし。(*_*;う~ん。でも実際に、締め付けられる。(>_<)やっぱり精神的なことということか。12月にカウンセラ-に教えてもらった東京の脳の専門機関で受診しよう。方向性だけでも分かれば…。あんまりお金をつぎ込むのは家族に申し訳ないのだけれど、どうしようもない。一昨日、昨日は長浜別院で報恩講。組長として出仕。調声が。すごい緊張感。本当にひどい家庭環境だったを痛感する。無理もなかった人生か。フッ。 
ようやく気が重かった、組の追弔会・同朋大会が終了。(-_-;)長く準備の時間をかけてきました。緊張か元々の言語障害っぽいものか分からんけで、言葉をカム。(*_*;余裕のない表情。さすがに疲れました。今日、京都へお話を聞きに行こうと思っていましたが、無理。少し、ボ-としていたい。講師の田代さんのお話にあったように、賢い人ほど思い通りになると思うので往生際が悪いか。なるほど。私か。
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昨日は、組婦人研修会で講師としてお話。前半は、真宗大谷派の組織の説明で、後半は「自力・他力」について、無意識・意識を無理に結びつけた感じで、上手くいかなかった。(-_-;)やっぱり、話は難しい。話している本人が、まとめ切れていないのだから。最近思います。本当に、自己評価が低すぎると。どうして、初めから引き下がらないといけないのか。そんなに、私は情けないものか。「人が怖い」というのも頷けるような気がする。頭が締め付けられるというのも、その結果なのだろうか? 
土曜日、午前仏事・午後仏事・夜会議と詰まったら疲れてしまった。(*_*;18日に組の追弔会・同朋大会が迫っているので、つい根を詰めてしまう。不安が先走る。ちょっとしたことでも、それがまるで巨岩のように思えてしまうのは、昔から。(-_-;)母の枠組みをつくづく感じる。相手が、私を見下げたり、非難するのはあくまで相手が判断することであるのに、そうだろうと私が判断してしまう。この凝り固まった自動思考。立ち止まって現実を見る目を養っていくしかないか。