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2012.04.25 強迫神経症
長年、強迫神経症に本当に苦しめられてきました。いろいろありすぎて、困るくらいです。なかでも、しつこいのがメガネのフイット感。メガネが正しくかけられているか、フレ-ムを外したりかけたり。メガネの鼻当てパットが正確に当たっているかどうか。レンズにゴミが付いていないかどうか。20代後半のひどいときは、四六時中気になり朝、目が覚めると今日も悩まなければならないのかと気が重かった。そのうち、どんどんメガネに注意が向き、実際200~300gの重さが10キロくらいの重さに感じられました。仕事場で机に座っていても資料は目に入りません。着けたり外したりして、耳の皮が擦れて痛くなっていました。あれから30年近くたった今でも、軽減はしましたが、相変わらず気にはなっています。本当に、鬱陶しいものです。昨日のカウンセリング講座で、強迫神経症は、本人の趣味ですとのこと。改めて、何かアホラシサを感じました。エネルギ-は、個々人同じなので、悩むことにエネルギ-を使いすぎるのはもったいない。確かに、悩む力は優れているということになるのですが、快適に生活を送ることを、自ら避けるほど費やしても、元が取れないということか。 
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2012.04.24 視線恐怖
人と生活していて、視線が刺さる、怖いといった視線恐怖は本当にしんどいし、厄介なものです。他人の視線が怖いということになりますが、ここにはパラドックスがあります。本来、他人は何を考え、感じているのか分かりません。同僚が怒ったような表情なので、何か私が悪い事でもしたのかと罪悪感に駆られていたところ、その同僚が友人に「今朝、出掛けに妻と些細なことで言い合いになって」と話していたとする。そこに、明らかに私は関係ありません。普段、その人に何か引け目に感じていることが、本人にそう見えてしまうということになります。他人の視線(私への見方)も、分かるはずがありません。それこそ、十人十色。控え目と見る人もいれば、消極的と見る人もいる。慎重と見る人もいれば、優柔不断と見る人もいる。分からないのです。一律に視線がとにかく怖いということは、他人の目を自分の目に置き換えて、自分を見ているということになります。自分の思いを確認しているといえます。理解はできても、怖いという感情は脳に染みついているので、これがなかなか大変。 梅をみれば、酸っぱいと感じるように。
抑圧される、圧倒される、押し込められる、体が震える、人込みが怖い、完璧・完全行動が止められない、視線が刺さる、意見・想いが出せない、体が敏感に反応してしまう⇒長年抱えてきた悩みです。他にもありますが、キリがありません。最初に飛びついたのは、催眠療法。以後、自律訓練法⇒森田療法⇒精神科医⇒カウンセリング。この間、生きていくエネルギ-が底を尽き、藁をもつかむ思いで、いろんな種類の薬を服用しました。うつの改善薬(SSRI、SNRI)は、実際のうつではないためか、ほとんど効かず、もっぱら向不安薬です。森田療法も長年しましたが、そもそも森田神経質ではないため、今となっては当てが外れた形です。何かにすがるという姿勢より、どうしてそういう状態にいるのか、自ら『気づく』ことで根本的な解決を迫っていくカウンセリングが一番良いように思います。
2012.04.20 アア~エラ
気が重い。毎日、心理学の本を読むのがしんどくなってきた。心のどこかで、読まなければ助からない、進歩はないと強迫観念が働いているよう。それだけ、自分の神経症症状を早く克服したいということなのですが。不快感はそうとうのもの。30年余り処方された薬を安易に服用しすぎたよな~。一時的には気分が楽になるが、結局は根本問題の先送りで、自分と向き合うことなく解決に至っていない。 ぼちぼちか。まっ、春だし、畑で苗を植え汗でもかこうか
昨日は、名古屋にてカウンセリング(心理学講座)を受講しました。地方から行くと、ホント都会という感じ。当たり前ですが。私も、全国転勤で、長年アスファルトの土地とコンクリ-トの建物の世界に住んでいましたが、孤独でした。アパ-トのドアをカチャンと締めれば、寂しい私だけの世界。重い腰で出かけても、人は多いですが知らない人ばかり。田舎に帰省した今は、たまに出会う人は知っている人ばかり。対人関係がうまくいかない、疲れてしまう私には、どっちが良いのだろう?今の方が、向いている。時間がゆっくりだし、窓から小鳥のさえずりが聞こえる。  昨日の講義は心が揺さぶられる思いがした。「恥ずかしいから、人と会わないが、なんとか友達がほしい。」→確かに矛盾した訴え。【恥ずかしい】を大事にするなら、当然、人と関わらず孤独感を持ちながら歩んでいくという人生になろう。また、その人生も『有り』でしょう。「友達がほしい」となれば、恥を忍んで、自分の想い、考えを伝えることで人間関係が深まり、結果友達ができるということになる。【恥ずかしい】は、親の価値観をそのまま受け入れている。まさに、私がそう。「そんなこと、人様に見せるようなものではない」「人様はもっと優れている」「人様と対等に付き合うような代物ではない」…こんなことばかり乳幼児期に聞かされ、見せられたら、そう思ってしまう。親と子供といえども、当然人格をもった人間同士。友達がほしいなら【恥ずかしい】をお守りのように、持ち続けるのは止めよう。私は、私の価値観で生きて良いのか。このことに、本当に気付かなかった。
リフレ-ミングとは、心理学で「歪んだ枠組みの修正」ということです。人は、生後成長していく中で、両親から、家族から、地域の社会から、義務教育の過程でいろんな考え、物のとらえ方、価値観の基準を取り入れ、自分なりの枠組みを持つようになります。特に10歳頃までは、両親の教え、価値基準は絶対のものとして無条件に取り入れます。親が、批判的、支配的な場合は、子供も同じようになり、なんとなく上から目線の態度となります。特にに、規則・規律を重んじる教師、警察、僧侶、小企業の親方の子供がなりやすいようです。上から目線そのものは、個性・人柄として良いのですが、そのことで本人が息苦しさ・しんどさ・「生きていたくない」を抱えるようですと、リフレ-ミング(枠組みの修正)が必要になってきます。では、どのようにするのか、次回からお話していきましょう。
2012.04.13 しんどいな~
なんでこんなに息苦しいのだろう。長い間、悪戦苦闘してきたが、ようやく自分と向き合うこと以外にないのだと理解する。今までの苦労が無駄にはならないよう、あったからこそと早く言えたら良いのに。フ-
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